2020年度環境・市民活動アーカイブズ資料整理研究会開催報告

 2021316日(火)、「環境・市民活動アーカイブズ資料整理研究会 サリドマイド事件関係資料を公開する―薬害の記録、継承の意義をめぐって」と題し、環境アーカイブズではじめてのオンラインによる研究会を行ない、全国から23人の方にご参加いただきました。資料寄贈者でジャーナリスト兼サリドマイド被害支援者の川俣修壽さんとRA長谷川達朗さんにご報告いただき、司会を担当教員の山本唯人准教授が行ないました。

 

開催プログラム:

1.開催にあたって 司会 山本唯人(法政大学大原社会問題研究所准教授)

2.「第3次寄贈分サリドマイド事件関係資料の概要」長谷川達朗氏(環境アーカイブズRA)

3.「サリドマイド事件関係資料の来歴と継承の意義」川俣修壽氏(ジャーナリスト)

4.質疑応答

 

■開催にあたって

 環境アーカイブズ閲覧室から配信するかたちで行なった研究会は、最初に山本先生から全体の流れと「川俣氏より第3次寄贈分として受け入れたサリドマイド事件関係資料を公開するにあたり、研究会を開催する。」「多くの被害者を出し、高度成長期の日本社会に衝撃を与えたサリドマイド事件をひもとくことは、コロナ流行の下、医療・衛生における安全とは何かを問いかけられるわたしたちに、貴重なヒントを与えてくれるものでもあるでしょう。」と、会の趣旨説明がありました。

 

■第3次寄贈分サリドマイド事件関係資料の概要―長谷川達朗氏

 山本先生からのお話のあと、長谷川さんから資料紹介がありました。まず資料群の背景として「サリドマイド事件とは、サリドマイドを含有する睡眠薬・鎮静剤(イソミン他)を妊婦が服用したことで、胎児の四肢、内臓、耳などの成長に著しい影響を与えた薬害で、これを契機に表面化した様々な問題の総称を指す。日本では、1965 年頃から被害者の一部が原告となり、国と発売元の製薬会社を提訴し、1974年に和解が成立した」と説明がありました。

 つぎに資料群の背景として、寄贈者の川俣氏とサリドマイド事件とのかかわりについてお話があり、寄贈された資料の来歴と構造について説明がありました。アーカイブズ学では、記録のかたまりの総体を「フォンド」、そのなかの作成者や活動ごとの資料のかたまりを「シリーズ」、その下の物理的な「ファイル」、さらにそのなかの資料1点ずつを「アイテム」と呼び、資料群を階層構造で示す考え方があります。長谷川さんが担当した「0051川俣修壽・サリドマイド事件関係資料」は、この考え方を元にサリドマイド事件にかかわるどんな場所や社会的関係から記録がつくられたのかを想定し、つぎのような階層構造で示すことができると報告されました。

長谷川氏レジュメより

 

 長谷川さんは、とくにシリーズ同士のつながりを記述するところに力をいれ、記録の作成者や記録に現わされた活動がどんなつながりを持つのかをお話くださいました。たとえば、シリーズ1「被害者・被害者団体」は、作成者である被害者自身や団体が裁判にかかわっているため、シリーズ2「原告団・弁護団」やシリーズ4「裁判・和解」と関連するということです。

 こうした資料同士のつながりについては、資料を公開する際に「資料群概要」として本サイト内に掲載予定です。

 

■サリドマイド事件関係資料の来歴と継承の意義―川俣修壽氏

 長谷川さんから資料群の構造についての報告後、寄贈者である川俣氏のお話に移りました。

 川俣氏からは、サリドマイド事件の経緯、被害の概要、被害者の現在、資料についてと経験の共有という5つのテーマでご報告となりました。

 導入はサリドマイド事件の経緯についてです。サリドマイドは、1956年にドイツで呼吸器伝染病薬として開発され、のちに睡眠薬や胃腸薬に使われた薬です。川俣氏は「サリドマイドは少量でも1回服用でも妊娠初期だと被害がでる」と指摘、さらに発売当初、企業が「大衆薬は宣伝で売れる」とテレビCMで大量消費を促したこと、1951年に西ドイツ(当時)で催奇形性を指摘され、ヨーロッパでは販売中止になったにもかかわらず日本では販売を継続、629月にやっと販売を停止するも回収が不徹底だったため被害が拡大したというお話がありました。

 サリドマイドの被害が明らかになると被害者は63年から製薬企業と国を被告として損害賠償請求訴訟を行ないますが、川俣氏は裁判所がどちらかと言えば被告側の立場であったため準備手続きに時間がかかり長期裁判となったと指摘。また、「被告側は因果関係と過失責任を全面的に否定」「国が因果関係を争ったのは日本のみ」として、63年夏ごろにはサリドマイド剤と奇形の因果関係は国際的な定説となっていたにもかかわらず、なぜ国が争ったのかは、まだ十分研究されていないというお話がありました。サリドマイド訴訟の行方は、和解で決着します。日本での訴訟と同時期に、世界各地で行なわれていたサリドマイド被害救済訴訟は、国際的に和解の流れができていました。そのなかで7312月に被告から和解が提案され、74年に合意されました。

 つぎに被害の概要として、よく知られている手足の障害だけでなく、耳の障害が重度な方もいて、それにより社会生活に障害をきたしていたり、内臓などにも障害がでていたりというケースがあるとお話がありました。そのなかで、被害者自身は自身の工夫や技術の進歩などに支えられ、社会生活を送れているということです。とくに両腕不自由者の車の免許取得はサリドマイド被害者が切り拓いたというお話が印象的でした。このように、通常の社会生活が送れているとはいえ、加齢による痛みやしびれの増加などにより新たな問題もでてきているそうです。

 こうした背景の説明のあとに資料についてのお話がありました。環境アーカイブズに寄贈された資料群は、川俣氏がサリドマイド事件年表をつくるために広く収集をはじめたことがきっかけで集まったものです。まず「資料と入手経路」と題するレジュメを見ながら、「最初にサリドマイド事件について年表をつくろうと思った最大の理由は、和解で解決したことが、果たして被害者にとってわかりやすい言葉で言うと正義だったのかどうか、自分で確認したかったということ」と資料収集の動機を川俣氏は語ってくださいました。

 そこからサリドマイド事件についての事実関係を整理し、当時最先端だった16bitパソコンを導入して川俣氏自身が収集したビラや機関紙などを入力していくということを続けていくなかで、それを知った被害者や元支援者たちが資料を送ってくれ、資料が資料を呼んでいき、どんどん集まっていったそうです。その理由として、「被害者たちも80年代に入り心の整理がついて、さて資料を捨てるには忍びないけれど、保存場所もないというなかで送ってくれたのだろう」という川俣氏のお話でした。

環境アーカイブズ内での資料保存の様子。中性紙封筒に資料のIDがふられている

 

 そうして収集されたなかでも、原告団の事務局を担っていた名倉妙子さんが書いた「名倉ノート」と「名倉日記」全13巻寄贈の経緯を詳細にお話いただきました。名倉さんが川俣さんの活動を知り「こんなものがあるけど、いる?」と持ってきてくれたノートと日記を、最初、川俣さんは全頁コピーをして、いったん名倉さんにお返ししたそうです。というのも、ものすごく貴重な資料であり、名倉さんの人生で一番輝いていたときの記録であるため、「自分が手にするのに心が定まらなかった」わけです。しかし、それから10年以上たったのち、名倉さんに「気持ちが変わらないなら、私に引き受けさせてくれ」といって、ノートと日記を受け取ったという経緯でした。

 この名倉さんの記録は、川俣氏が収集したサリドマイド事件関係記録中の15%ほどをなし、日々の事実関係を詳述しているものです。しかし、ここには重要な会議の内容や名倉さんの心情は書かれておらず、もしかしたら別につづられた日記があるのではないかと川俣さんは推測されています。

 

【0051-1-021-013】名倉日記。当時受け渡しされた際に入っていた袋とともに

 


 事件当時者から収集した記録以外にも、川俣氏が独自にあつめた資料がありました。それが行政側の記録です。行政が作成した記録を情報公開請求で収集し、不開示になった場合も不開示までの経緯を記録していたと川俣氏からお話がありました。こうした情報公開請求で取得した厚生省とのやりとりをメモした文書を見ながら「モリカケ問題などで政府は文書がないと言っているが、自分はメモ書きの文書だけれど、やりとりの内容を確認できる文書を取得できた。政府と交渉するときは、必ずこうしたメモは残る。だから、ないと言っている文書はあるはずだ」と現代に通じる課題について経験を共有いただきました。そして、サリドマイドのみならず、公害、薬害事件のデータベースの整備や国との交渉の記録を社会に広く公開するような仕組みを考えてほしいと問題提起がありました。

 最後に、社会運動にかかわる資料の散逸について危機的状況にあると指摘、いまが戦後の学生運動や社会運動の最盛期の記録を収集し、後世に伝える最後のチャンスだとお話いただきました。東大闘争などパワーのある運動をどうやって未来に継承できるのか、私たちの機関だけでは負いきれないほど大きな課題を提示いただきました。

 ご報告を受けて、山本先生は「国の官僚機構のなかでつくられた記録をわれわれ市民がどうやって入手するのか、そういうある種の闘争のなかで資料が集まってきたということをリアルに伺うことができました。私たちの知る権利につながるお話だと思うので、非常に重要な示唆をいただいたと思います。」と締めくくられました。

 

■質疑応答

 お二人の報告後、チャットに書き込んでいただいた質疑に報告者が答えるかたちで質疑応答の時間となりました。

 まずサリドマイド事件に対する質問として、和解記録とはなにを指すのかという質問がありました。川俣氏から和解記録とは和解交渉がはじまってからの記録のことであり、和解交渉にいたるまでに弁護団が被告側とすり合わせた記録などは残っていないという回答がありました。また、大気汚染公害の裁判のなかで和解交渉の文書記録はほとんど残っていないため、当事者へのヒアリングが中心となっているという意見に対し、サリドマイドでは支援者と被害者のあいだに意見の食い違いがあったため、ヒアリングはほとんど行われていないという回答がありました。また、裁判官へのヒアリングをしてみてはという意見をいただき、川俣氏から考えてみたいと回答がありました。

 つぎにサリドマイドの運動とほかの公害運動との連帯はどうなっているかという質問へは、支援者同士はつながっていたが、被害当事者はさまざまな理由から連帯にあまり積極的ではなかったということです。

 さらに資料公開についての質問で、被害当事者の記録を公開することへの意識はどうなっているかというものがありました。川俣氏のもとに集められた記録は、すでに公開された情報が多いため、それらの公開は問題がないという認識が示されました。ただ、そのなかで報告のなかにも登場した原告団事務局の名倉氏がつけていた「名倉ノート・日記」は、彼女がつづった日々の生の記録であり、当時の状況が克明に記されている貴重なものであるが、名倉氏自身が利用してほしいと川俣氏に託したものであるため、公開することに問題とはならないだろうということでした。

 薬害という人の生に深くかかわる事件資料の公開に関しては、事件から一定程度時間が経過したがゆえに、いま公開するとかえって当事者がしんどい思いをするということが起こり得ます。資料を公開するうえで、社会的に不利益を被る人がでることのないよう利用を考えていく必要があることを改めて考えさせられました。

 そのほかにも、薬害被害者運動当事者からもコメント、川俣氏がどうやって法務省の情報公開申請を行なったのかや資料群の編成の実務への質問や司会の山本先生への資料への取り組み方への質問などをいただき、質問の受け手も考えるべき視点を教えていただくような質疑の時間でした。

 

 最後に、終了後ご協力いただいたアンケートでは、次回開催のための改善点をご指摘いただきました。感染症の防止対策強化はまだ続く見通しですので、安全な方法を探りつつ、より記録への理解が深まるような研究会が開催できればと考えています。

 次回もぜひご参加いただけましたら幸いです。